3人休み

今から30数年前、大社長がまだ高校へ入学したばかりの実力テスト、
150人の入学者全員が受けたはずなのだが、大社長は147番だった。
ただし3人休んでいた。

人間歳をとり、故郷から離れていると益々故郷が懐かしくなるが、
北海道立夕張東高校は素晴らしい高校だった。
卒業生は立派な大人になるのは大社長が証明済である。
昭和42年入学の小生達が第6期生で、昭和58年には廃校になった。
今学校のあった場所へ行くと残っているのは記念碑だけである。
炭鉱の町だけに、炭鉱が閉山すると学校もなくなるのはしかたが無い現実だ。

故郷大夕張は今年からダム建設工事が本格的になり、既に地図上ではなくなっているのだが、
本当にダムの下の町になるのもそう遠い事ではないらしい。
高校は高台というか山の上なので下にはならないが、
うまれ育った春日町南2丁目7番地は確実にダムの下になる。
長野県の何とかという知事はできれば北海道の知事をやってもらえないかというのは結構マジな願いでもある。
長じて同窓会などになると、改めて実感するのが、先生達との歳の差で、今となってはこれがほとんど差がない。
学校も新しければ、先生達も新しく、学校出たての独身の先生達がほとんどのようなものだった。
全く余談だが、結構たくさんの先生達が当時の教え子を嫁さんにしている。

彼らは実に熱心で、150人の生徒が途中転校などはあったかも知れないが、全員そのまま卒業している。
小生は些細な事で3度ほど停学を頂戴しているが、退学にはなっていない。普通3度停学になれば退学が
当り前だと思うのだが、彼らは「退学をさせてはこいつの思う壺で、教師の敗北である、
それなら停学に留めておいて、しっかり教育する。」というような感じだった。
どうせ150人中3人休みの147番の生徒なのだからほっておいてもよさそうなものだが、
今となっては大変感謝している。全員留年も無く卒業させてもらっているのは先生達の情熱に他ならない。

大夕張というのは本来の地名ではなく、三菱大夕張鉱業所という炭鉱で、正式な地名は鹿島という。
中学校のクラスはA組からI組までの合計400人強で、2期上はK組まであったくらいだから
戦後の炭鉱の全盛期はすごいものだった。
大夕張の人間は100%炭鉱に関係している完全な企業城下町で、その中でも炭鉱というのは特殊だろう。
ここで生まれ育って良かったことはたくさんあるが、「大きくなったらこの町を出なければならない。」
と頭から思い込まされていた事もそのひとつだ。
死んだ親父を含めてほとんどの親が、炭鉱は危険な職場故に息子にはやらせたくない。
娘にも嫁に行って貰いたくない、と教え込んでいたようだ。
そんな事だから、高校を出たら必ず故郷を出るのは、全く当然な既成事実である。
これで子供は当然のように故郷を出た後の自分の人生を考えるようになる。
どの親だって、戦後の混乱期、家族を食べさせるために危険な職場の炭鉱へ来ている。
それだけに子供にはというのはあったのかも知れない。
そして故郷を出るのも当り前だから、自分がやろうと思うことが先で、どこでなければ、
というこだわりも無い。基本的にフロンテイア精神を植え付けられているようなものだ。
また3人休んでたって、「おまえは出来が悪い」とは言わない思わせない教育が素晴らしい。
最近のサラリーマン教師達に爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。

大夕張を語りだすと止まらない。その150人の同級生のうち50人ほどが本州に住んでいるが、
東京で毎年12月に行う同窓会(同学年だけだが)にはしっかり30人は集まって飲む。

どうも単なる単なる年寄りの昔話になってしまった。
たまにはこんなのもいいだろう。